箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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の三回接種するよう規定された。種痘接種済者には、次のような証書が渡された。古老の記憶によると、明治二十年ごろまでは、まだ天然痘に躍るものもいたが、種痘接種が徹底し、痘苗もよくなるにつれて、その後は余り発生をみなかったようである。明治三十五年の中箕輪村衛生報告によると「初種接種ヲ施行シ其人員一二九人ナリ、内不善感一八人ナリ、前年度ニ比較セバ大-一成績ヨシ、之畢寛痘苗製造ノ佳良ナルニヨル、製造ハ医学博士北里柴三郎氏ノ試験製造ニ係ル所ナリ」とある。しかしまだ天然痘を恐れること多大で、幼児を持つ家では、三0センチほどの藁を束ねて赤い幣束をさしたものを屋根棟に立てて、天然痘から逃がれることを祈る風習が残っていたという。昭和十六年、中箕輪村に天然痘が発生し、全村民種痘接種を行なった以後、大正、昭和期に天然痘発生の記録はない。コレラ「コレラは衛生の母であるO」とは西洋の名言であるが、わが国の衛生行政、衛生思想の向上も、コレラの流行に負うところが大であったといノ。種痘済証明書A長野県では、特に明治十九年には県始まって以来の大流行となり、患者数三九四名、死者二二八二O名に達したというが、箕輪町にはコレラ発生の記録は見当らない。た。予防に大童の県からは、次のような諭達が出され諭達先般予防摂生之義ニ付勧告候次第等モ之


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