箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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伺Tコト保育園貰子、里子、預子又ハ継父母其ノ他他人ノ手ニテ虐待セラル児童ノ保護ヲ図ルコト学令児童ノ就学及出席ノ督励ニ努メ、特ニ貧困ナル家庭ノ児童ニ対シテハ相当保護ノ方法ヲ講ズルコ帥、少年少女ノ職業及労働ノ状態ニ留意シ其健康及風紀ノ保全ニ努メルコト委員数は一名で、本格的な社会福祉事業の推進は困難であった。昭和十二年方面委員会令が改正され、方面委員数も増員となり、その後母子保護法、医療保護法等制定せられ、方面委員の活動範囲が拡大された。特に第二次大戦中は、出征、遺家族援護等の仕事も加えられた。民生委員昭和二十一年終戦による引揚者、生活困窮者の援護事業が急増し、生活保護法が制定され、従来の方面委員は廃されて民生委員と改められた。昭和の初期ごろまで社会政策の貧困から、こじき、物もらい、諸芸人等が、村中を俳相したものである。要保護者の調査および救済指導を行なうため、大正末期に設けられたのが方面委員の制度で、昭和二十一年の民生委員会の発令まで続いた。民生委員は推薦委員会によって推薦され、厚生大臣から委嘱を受けて、社会福祉の増進につとめ、保護指導を行なっている。昭和五十年現在の構成は、定数三六名(男二四名、女一一一名〉である。慈恵幼稚園大正十五年四月、木下の小林恵鏡によって、氏が住職であった嶺頭院に開設されたものである。託児所的なものでなく、幼児教育を目的とした幼稚園で、通園児は木下と松島の仲町以南の商家を主とする中産階級以上の家庭の子女であった。当時の伊那地方には、伊那と赤穂にキりスト教関係の幼稚園があったのみで、宗教と無関係の幼稚園としては唯一の存在であった。


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