箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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設園の目的は、当時、一般に家庭における幼児教育についての理解や関心は低く、裕福な家庭は、新潟や富山方面から、年間十五円ほどの手当で子守娘を傭って子守りをさせ、一般も子どもは放っといても育つという考え方が支配的であった。こうした風潮の中で、ともすれば粗野になりがちな幼児に、よりよい遊びを与え、社会性や豊かな情操をもっ子どもを育てようという考えに基づくものであった。職員は、保母資格をもっ守谷保母を飯田から招き、伊那高女を卒業したばかりの清水慎子と東京から頼んだ親戚の小林良子の二人の助保母で、六名の園児の教育にO当った。教室は寺の玄関と本堂の廊下、遊具は鐘楼のそばに設けたブランコだけであった。一人一円の月謝と木下、松島両部落の有志者からの寄付金額二百円、県からの補助等で四月から運営を始めたが、保母の給料、教授用図書や積木細工、机、ゴザの購入費を賄い切れず、十一月には木下区に約七円の補助を願わなければならない苦しOい経営であった。そんな中から、八円のオルガンを買Oい入れ、小学校を退職した音楽の上回吉太郎先生からオルガンの弾き方の手ほどきを受けるなど指導技術の向上につとめた。慈恵幼稚題児T.::.ち


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