箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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これを「凱旋」といい、凱旋軍人の歓迎が国を挙げておこなわれた。日露戦争に町内全域に何名の出征者があり、其の召集状況などの資料が得られないので不明であるが、戦没者は、中箕輪村一一一一名、東箕輪村七名、箕輪村四名、計二四名であった。ポLツマス講和によって、日本は、北樺太、南満洲鉄道、其の他の利権を得たが、これを不服とする者が一部国民の中にあった。これを戒めた「訓示」が上古田にある。「(略)抑々宣戦そもそもこうわと構和との事は陛下の大権に属するものなれば軍人たる者は唯ただままかりそめわきまひがとともと陛下の命の撞に進退すへし仮初にも和戦の可否を口にするか如きは本来の分限を騨へさる僻事にて固より紀律の許ささる所と知るへし世間或は今回の嬬和に不こうわいだ満を懐く者なきを保せず(以下略〉」明治三十八年十月三日陸軍大臣寺内正毅このころの箕輪町の管轄は第一師団(東京〉管区である高崎から、第十五師団管区の豊橋に編成替があり、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、鞘重兵、ともに豊橋に入営するようになった。これは大正末期まで続く。日露戦争以後は益々軍隊の存在を重視し、これに力を入れた。町村役場の兵事係の指導を強化しまた、徴兵検査の成績を競うようになった。このような状況下において、日露戦争後に帝国在郷軍人会が各町村単位に分会として編成された。その在郷軍人会の規約を見ると、平時の予備寧として、大きな存在となってきた。上伊那郡中箕輪村在郷軍人会規約(抄〉正確ニ行ハシメ且執行官-一便宜ヲ与フル事第三条本会ハ軍人一一対スル勅論及読法ノ趣旨タ奉体シ寧人十四壮丁(徴兵検査を受けて入営する者の意)ノ予習教ノ口問位ヲ保持シテ国民ノ儀表トナリ業ヲ習ヒ験-一励、、、進テ育ヲ為ス事後進者ヲ指導誘披シ共同一致報効ノ誠ヲ尽スヲ以テ目的ト十八在郷将校会及同郷出身ノ現役将校ト連絡ヲ保チ本会スノ発展ヲ計ル事第四条十九現役下士卒ニ連絡ヲ取リ一一周ニハ隊内ノ情況ヲ詳カ八簡閲点呼執行-一方リ受関者ノ服装及出場ニ注意シ之ヲニシ一面ハ在営者ニ慰安ヲ与へ且ツ之レヲ鼓舞スル事


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