箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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..十七日には「箕輪学校庭前ニ出初式ヲ挙行シ出場入員二百三名」とあり「同年五月二日福与区田中喜右衛門氏火災ニ出場シ大ニ功アリ之レ本組柳筒使用ノ初メナリ出場人員二百八名」、とあって組織された消防組の力の大きな事を認めている。同年七月二十一日には「天竜川大水ニ付一一一日町部其水防ニ従事シ大ニ尽力ス出場人員百六名」とあり、九月十二日にも「天竜川大出水ニ付其水防トシテ三日町字町裏一一出場ス出場人員二百二人」とあり殆ど全員、が出動している。このように箕輪村消防組には水防関係の出動が数多く見られる。明治三十一年の四月二十三日一一一日町上棚に大火災が発生し、六戸焼失、棟数十八棟「隣組ヨリ応援ニ・釆タモノ木下、松島、久保、大泉、塩ノ井、北殿、中曾根、富田、御園、伊那東部、八ツ手ノ十一組部」とあり、三日町部ではこの火災で馬簾を焼失した。この火災の際の働きが認められ、同年六月に松島組、木下組と合同で箕輪南宮神社境内で使用認許を受けた金馬簾の披露式を挙行している。明治三十八年六月には、二十一より三日間天竜川大洪水の為水防として大橋(箕輪橋)附近に出場し濁流中に犬粗莱或ハ聖牛等を入れ応急防禦をして堤防の欠潰を防いでいる。なお、同日卯ノ木の組員は同地の水防に従事して大いに功のあったことが記されている。明治三十九年には三月に二日間降旗郡平巡査を帯して、箕輪小学校庭で柳筒使用法の訓練をしている。破壊消防から脱皮してポンプによる消防を主にするようになったのはこの頃からではあるまいか。なお降旗巡査からは翌四十年にも使用法の教授を受けている。明治四十三年三月十六日の大出大永寺火災にはいちはやく馳付けて消火につとめている記事が見えるが、この火災には大出消防組員に三名の殉職者を出すという事があり、消防組始まって以来の大きな犠牲であった。又大正二年八月二十九日には前日西駒ヶ岳に登山した中箕輪村立尋高等小学校長及同校訓導、同校生徒三十余名遭難し生死不明の捜索に当り、組頭、両部長両部小頭全員午前四時発、午後一時天水岩着、当日各捜索消防隊と協力して捜索をし、一同引揚帰宅せるは午後十時三十分であったと記されており、当時隣村関係であった箕輪村消防組でも幹部全員が応援に出動したのである。大正五年五月十日の松島大火災の消防活動については詳細の記載があるので次にその全文をのせ,..-HI'30


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