箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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長野県知事内海忠勝殿一回畑区画ノ大小トハ其村内ニ於ル田畑共広狭ノ割合ニシ乙第一五一五号テ例へバ一村内ニ於ケル団地中一反歩(畑地ハ旨項二反歩過日村長御集会ノ際及御談一万置侯木県達第一一一O号中疑義以上)築筆一反歩以下五畝歩以上築筆五畝歩以上袋一筆-一シテノ廉左之通御了解期限ヲ経過セサル様御書出相成度候比例条項幾分宛ナルヤ又、平均畝歩ハ幾何歩ナルヤ調査スル一土地売買件数トハ売買証書一通ヲ以テ一件数トナシ地目ナリノ異ナルモノヲ包有スルトキハ之ヲ別チ各一件トス右及御通知侯也一同売買代価芳役場ニテ不相分時ハ地価ヲ取調其旨附記相明治二十コ一年三月十三日成度上伊那郡役所第一課町村制と自治制の問題村会と区会|明治二十一年四月十七日法律一号による町村制の施行となったが、長野県では県知事木梨精一郎による分合案が諮問され、合併の答議書が提出させられている。すでに深刻な分村問題で行政村の方向を政治問題としてあらわにしている箕輪地方の場合、中箕輪・東箕輪・箕輪の各行政村の誕生となるが、他地域のような種々な問題は直接に起きなかった。とくに明治十八年以来聯合行政村を経験した東箕輪の南北小河内・長岡(樋口外四ケ村)Lや箕輪の三日町・福与(沢岡外四ケ村)については、県・郡役所では、かつての深刻な分村問題にかんがみ、独立行政村として認めたが、長野県の行政合併村の方針に民意の吸収策が強いにせよ小さな箕輪村を独立村として認めたことは、異例なこととみなしてよい。以下記録の残された箕輪村をみることとする。ところが箕輪村の役場は、明治二十三年三月十一日火災となった。その結果、「仮役場位置ノ件御伺書明治二十二年五月ヨリ本村百三十一番地ヲ仮役場ニ借受ケ事務取扱罷在候処本月十一日火災ニ擢リ比一一就テハ仮役場之義ニ付村会ヲ経テ本村二百九十八番地ノ内二番ハ笠土庵)ヲ仮役場ニ相定メ度候且ツ令処ハ墨ニ箕輪村


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