箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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中箕輪村上古田耕地惣代押野福太郎⑮岡・沢底に四支校がおかれたのである。明治二十年の百九十七円十八銭の教育費は小河内学校下の簡易沢底学校・上野学校の費用となっており、収入に、雑収入として、授業料が入っている。このような状況は、明治二十二年町村制施行まで続くのである。明治十九年聯合町村制の下で、学校令が施かれたために、特色のある行政・文教政策が展開したことをしることができよう。第三節町村制施行期の行政分村請願からみた町村制の問題長野県の明治二十一年四月の町村制施行が合併・分合の諮問によったため各地で動揺がおきたが、箕輪地方では発足した中箕輪村の内部で、分村の動きが激しくおきた。以下西部関係書類よりこれをみれば、「一、分離村請願書一一付松島役場へ出頭するため富田二人・上古田二人・中原一人・内一人は沢岡村分離願騰写に出頭する事:::八乙女耕地は差支の要あり後会に確定の処申出事」中箕輪村富田・上古田・中原が分村請願書をつくるべく、すでに分離請願のでき上っている沢岡村ハ伊那市手良)へ書類の引き写しに出かけ、惣代は村役場の書類を写すべく、左の願書を提出した。「願書本年国会法律第一号町村制布告ニ拠リ、中箕輪村ノ内上古田耕地・富田耕地・中原耕地右三耕地本村ヲ分離シ一村ヲ独立維持仕度候-一就テハ右分離請願ノ手続キ書一一必要スル各耕地地面反別及田畑山林等ノ仕訳井一一戸数人口等ノ員数謄写仕度候間当役場人民和席-一テ右帳簿御下附被下度此段奉御願候也明治一一一年十一月十七日中箕輪村富田耕地惣代中箕輪村中原耕地惣代向山歌吉下平秀吉向山三十


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