箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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上伊那郡第十二番小学東箕輪村一小学卒業生二人但四年学期小河内学校長野県令大野誠殿前書之通相違無之奥印仕侯也右公立小学々科卒業ニ付来ル九月全科試験致度候此段奉願侯也有信学校組合学務委員木村真生⑪郡長伊谷倫代理明治十四年八月二十七日(朱印〉書面願之趣開届侯事ト心得ベジ明治十四年九月七日上伊那郡書記山本恭峰但日限ノ義ハ派出員者相違義明治十四年七月十八日有信学校学校準三等訓導富島良胤戸長上田門三郎⑪⑪明治十七年五月連合村について明治十七年五月、町村会法の改正が布告され、連合戸長役場が設けられた。戸数五百戸にみたない時は、数ケ町村連合してもさしっかえなく、五町村以上に及ばないことが条件とされたので、東箕輪村は樋口、平出・赤羽・沢底の各村と連合し、樋口村外四ケ村の聯合村を作った。福与・三日町村は、野口・中坪と連合し沢岡村外四ケ村の村を作った。樋口村外四ケ村の連合村についてみれば、連合村役場は樋口山際の樋ノ沢川に架る県道の橋の南側におかれ、戸長は有賀源衛であった。民選に替り官選の戸長であり、明治十九年には、飲富安忠に替り、明治二十年には、長田七郎治となっている。連合村の戸長の給与は年俸百八十円というから、民選の東箕輪の戸長年俸七十円(明治十六年)の二倍半にあたる高給であった。平出から長岡までの数里にわたる樋口村外四ケ村の連合村について、北の平出では発足と同時に分離の嘆願を出している。その文面をみると「木県甲第十九号の御発令で:::、俄然御達を蒙り、人民一同驚惇盛嘆の限り:::」であったということで、強引な官制自治への強行であったことがわかる。上伊那でもこのような連合村は多くあったが、沢岡外四ケ村へ編入された福与・三日町村の場合、旧沢岡村役場へ戸長役場がおかれ、戸長は松本義忠であった。樋口他四ケ村長有賀源衛(愛国管学校四紘一寸訓導)を除き、他は回五


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