箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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東箕輪村ノ内小沢惣造三井助三郎漆戸玄菊@@右三名衆中江治談方申入度儀有之尤大区長ヨリ選挙之次第芳明舟一日午前十時事務所江御出頭有之度委細諜口口口可申入候也十月三十日東箕輪村兼再自村廻リ使ヲ以御通報候与口口口御出車待望候也筑摩県制下の分村問題筑摩県制下村落の合併が始ったのは、明治六年十二月二十五日の大蔵省達を、筑摩県が明治七年一月十二日管下区長への通達からはじまった。九耕地を一村とした中箕輪村、三耕地の東箕輪村も、合併に迷いながら、進むことになるが、やがて、明治八年三月、合併廃合不可とする内務省通達が出されるに及んで、分村問題が白熱化することになる。中箕輪村では、沢・大出で一つ、下古田・上古田・富田が一つ、松島・中原が一つ、木下が一つの四分村で、八乙女ははっきりしなかった。分村要求も、木下・沢・大出のように学校問題を主とするところと、松島・中原のように遠隔と地租が問題となるところがあったが、このときは、動きだけで終ってしまった。東箕輪村では、明治七年に、二ケ村願立を申しでたが認めてもらえなかったとして、明治九年村惣代が願い出しているが、訴願文①では、筑摩県が正副戸長に、懇


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