箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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諭せよ:::と申しており、訴願文②では、正副戸長は説諭しかねるからと、添書で申し出ている。訴願文③では惣代は説諭されても一同協議した上で再び愁訴し、嘆願書④となった。ここでは、内済文で扱所を三ケ所とすることで一ケ所三ヶ月と取決めたいとして、嘆願書⑤を添えるが、下戻され、明治九年十二月、扱所を建てるが、各耕地に村吏一名宛をおくから:::と申している。このように、金村をあげて村惣代たちが申し出、県では、戸長たちに説諭せよ:::として事態の収拾を計っていることが、特色として指摘できよう。尚、他の記録(長岡の藤沢庄太郎)によれば、「明治八年二月二十五日、長岡長松寺に扱所会所据置、次の年南小河内新右エ門に扱所移し、文翌年(明治九年〉長岡文蔵宅江移し、明治十三年五月迄扱所」であった。明治十三年五月に、南小河内の上田門三郎が人選戸長となっている。このように扱所が東箕輪領域であり、戸長(矢島朋之進)役場も南小河内であったから、箕輪領域は、明治四年以来分村状況(布達など副戸長島山半十郎)を通じて行っている。とくに、箕輪(福与・三日町〉と東箕輪のを通ずる道は、明治末年漸く聞かれたが、それでもなお験阻な路であり、洪水のたびに切れてしまうような状況があったことは、老人などの経験するところであり、このような問題が分村をすすめることになる。訴願文①第十七大区一小区伊那郡村落合併分離願東箕輪村旧高二千二百五十三石一斗一升七合北小河内・南小河内・長岡耕地現今反別二百九十三町三反一畝二十四歩戸数四百十戸旧高千八百八十八石九斗七升九合三日町・福与耕地現今反別二百八十五町三反一敵二十一歩戸数百九十九戸


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