箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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一戸長副之儀者戸籍人口専引請之職掌-一付猶更村役人共可申尤モ鰯料返納者申年十一日晦日限リ無相違返納可致事申合前領主之趣迄深切-一可致尽力候御賞与筋之儀者同様相心右之趣小前末々迄無洩可相違候此廻状村各下全請印順達留得べく候事り村より可相返者也一回畑養肥第一之方鰯遠州掛塚湊より積登セ県下最寄村来九月晦伊那県庁印々江貸下ケ試侯処口口哉と相関候条届之者共拝借之儀当未十(御子柴手良までの箕輪領域の村・4〉」即ち荒地開墾を十ヶ年無税とし、一ニ・四才の棄児(飼い助け)の禁止、鰯の肥料斡旋を布告している。このように新政府の政令が次々と出され、醸造・旅行の鑑札廃止・届出制も、新制度の特徴とされしるされている。箕輪町の村々は、百三十一区(沢・大出・八乙女、松島・木下〉・百三十二区(吹上・富田・上古田・下古田・中原新田〉・百二十六区(福与・一二日町・長岡・南小河内・北小河内)の三区が、南北に長く割られたままの行政区となっている。明治六年三月、筑摩県では、百九十九の行政区を三十の大区として、区長と学区取締をおいた。箕輪町は十七大区となり、役所が松島におかれ、日野香々彦が大区長・学区取締を兼任した。十七大区は、伊那市より、辰野町への上伊那北部を行政区とした。即ち、第一小区東箕輪・第二小区朝日・第三小区小野・第四小区三里・第五小区伊那富・第六小区中箕輪・第七小区西箕輪・第八小区南箕輪・第九小区伊奈が、十七大区となっている。当時の大区長は、戸長・副戸長に指令を発して事務を統管する権限はなく、単なる官設区域であったとされているが、区長章程をみれば、相当の権限をもっていたことになっている。明治五年の筑摩県の布達をみると、文明開化の新政策や、絶対主義的な生活干渉など多様であり、これらの布達が、いままでのように、寄合(よりあい)で、読み聞かせるというやり方でなく、一方的に布告されたところに、この時代の特色があった。県令永山盛輝は、教育と殖産興業としての養蚕・生糸、地租改正の小作地方式など独力で、強い育成を画ったことが「説諭要略」などでしられる通りである。布達について、明治六年一月、永山盛輝は組合村々に次のような一文を発している。(御布令御廻達模写之記、明治五年、百二十六区戸長矢島八朗)


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