箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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領主側や村役人たちが必死で事態に即して、「御救い米下附」や、「弥勃院への祈願」などで、危機を回避したため、打こわしの難を逃れることができた。そして、慶応三年十月よりの「御札降り」のヤチョロ騒動は、箕輪地方各村々へ広く、深く影響している。南小河内の上回胤三郎四十九才の平田国学没後門への入信は、慶応三年十月のことである。箕輪地方の平田学入信者は、明治二・一一一・四年にわたって展開するのが、門人分布上の特色となっているが、太田騒動や世直し状勢の影響の大きかったことが察せられよう。千葉胤恭(千葉原廉節)と上田胤親の二人は、松島と、南小河内・長岡へ平田学を浸透させている。日間明附〕|慶応四年正月五日藤沢七郎兵衛三十才ハ源頼太)矢島朋之進(源敏平三十八才〉・小口勘左エ門三十一才(源苗清)日胤附附凶|慶応四年四月都筑五郎三郎千葉七郎右エ門千葉庄右エ門・目喜兵衛浦野与右エ門・日野嘉兵衛・三日町荻原市右エ門南小河内の上回胤親・藤沢頼太・矢島敏平・小口苗清と小林義治(明治二年正月入門)の五人は、明治二年三月神葬祭を断行し、政府による革命政策の排仏殻釈を卒先実施し、仏壇に変る御霊屋を設け、国学四大人を祭っている。この年、小口苗清は、南小河内の十四人を平田門人として入門させ、上田と共同で明治三年、長岡で四人・辰野町羽場で二人、同樋口で五人と、国学門人をひろめ、このため、明治維新の新政策は、激しく、当地に侵透し、その影響は大きかった。明治三年、維新政策の大教宣布による神社制度や、その後の祝祭日の設定など、積極的に行い、明治四年学祖神社の建設などがみられた。明治五年、筑摩県の戸長役場が、国学者矢島敏平宅に設けられるが、筑摩県の開明的な絶対主義政策にたいして、彼等国学の雄たちが、どのような対応をしたか、甚だ興味深いところである。時代の動きを先き取りしただけに、やがて神祇官を廃して(明治四年〉文明開化政策に変った新政策に、裏切られた明治維新として、彼等の傷ついたイデオロギーは、しばらく、沈黙せざるをえなくなった。松島の千葉胤恭の紹介による都筑五郎三郎・千葉七郎右エ門は、太田陣屋の役人であることに注目したい。


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