箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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太田領離脱諸願の契機として、歎願となった事情は次の通りである。第一太田領となった歴史が間歓的で、里民がその支配の恩を感ずるというような事が稀薄であった。第二藩主への反感と配下村役人の聞に反目嫉視が伝えられていた。金を出せば新米のものにも二本差を差させて、上座にすえるような信任を厚く受けて居る者と、居ないものの札牒と闘争があった。八ケ村の者が団結せず領主への内通者があった。第三時代の形勢がある。幕府の倒壊による平田学派の思想的背景第四最重大なる事は、生活問題である。天領の時代と地頭領(旗本領)の時代とは納税その他の負担に非常な差があった。冥加金、御領金その外種々の名目で取立てられていたので、これが一番堪えられなかった様である。御一新の改革によって時節が到来し、鎮撫便通行により火に油がそそがれた。維新により種々制度の改革が断行され、全国を府、藩・県に分け、知事を置くことにした。伊那県も慶応四年八月二日に設置され、県庁は飯島の元陣屋に置かれ北小路俊昌が任命された。明治二年二月晦日塩尻尾州御取締所の所属の村々、沢、大出、八乙女、下古田、上古田、富田、中原新田、松島村の一部、木下、三日町、長岡、北小河内が伊那県の管轄に入り、太田知行所の所属である村々の松島、南小河内、福与は明治二年六月二十四日に、ようやく解放されて、伊那県管轄となり、関係村々の人民の喜びは、大変なものであったといわれている。伊那県においては、園内の至る所で騒乱が起り、人心の動揺の激しい折柄、これを鎮撫して正業につかせるこLとが最初の仕事であった。各村々の役人に対して申渡しをおこなった。その内容においては旧幕府の当時と概ね同じ内容のものであった。各村々は組を通じ下に徹底をはかる一方で、特に必要なる事柄を約束させている。沢村においても各伍長が御維新以降は、旧来の種々の習慣をすて、学聞を盛にし、広く智識を吸収して、各


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