箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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台所から「御飯の真中が盛り上って煮えたときは晴」これには大気の圧力が関係しないか。木の重い釜のふたで温度を上げて沸とうさせ、米のしんまでふっくらと煮ょうとしたがそのふたの上に更にふたの重さに比べればほんのわずかであるが、大気の圧力つまり晴天の高気圧が関係しないだろうか。圧力釜、電気釜、プロパン釜等の現在では、通用しない僅諺である。台所の天気僅諺も数多いが、プロパン、石油の現代に通用しないものに「ひじろの煙が静かにのぼると晴」「ひじろの煙が家の中にこもると雨」がある。低気圧の接近につれて、いろりの煙をかきたて、屋根裏のよろい煙出しをふさぐ風がふけば、天気も下りさかと言える。「プロパシの炎がどうなれば何」という僅諺は箕輪町では未だ生まれていないし、ひじろは姿を消している。人体から「膜がいたむと、あかぎれがいたいと、しもやけがかいいと、神経痛がおこると、どれも雨」お釜のふたに及ぼす気圧と関係があるなら人体にもひびくわけである。仕事に出かける人であれ、家にいる人であれ、いわゆる六感ということか。雲のかたちから「わた雲、羊雲、いわし雲、どれも雨」萱野の上に出た入道雲、つまり積乱雲の俗称と同様に、これらは高積雲で箕輪町の俗称である。高積雲は、寒冷前線の迫ってくる前ぶれであるから近いうちに「雨」が妥当である。そ「子どもがお茶をのむと風がふく」「女の腰巻をふれば風が止む」撲を現すもの、ユーモアを現すもの等あるが、とにかくこれらは箕輪町の中で長年時を要して作られ言いつがれて来た文化遺産である。町内に限らず広く日本中に通ずる僅諺もある。しかし消えて行く僅諺もある。釜の木のふたは鉄のふたになり、タイムスイッチ付きの電気釜の時代であるのだから当然かもしれない。「めだかが群になって泳げば雨」のような僅諺もあったが、今の箕輪町の小川にはめだかが見えないが、この僅諺が通ずるようにしたい。五.....L‘ノ、の他


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