箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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石替や石柱をつくる時期とが考えられる。水が空中の二酸化炭素(炭酸ガス)を含みこれが石灰岩をとかして流れ出て洞をひろげ、また石灰岩をとかしたこの水が、二酸化炭素と石灰水にわかれて、二酸化炭素は空中へ、水だけ流れ去って後に石灰岩を再び形を変Wえて残す、これが鐘乳石や石省になるのである。昭和二十四年より三年間程南鐘乳洞の近くの石灰岩の露頭を崩して石灰を焼いた。谷川のほとりに炉を築き、山の急斜面を利用して石灰岩を下に落し、燃料は近くの雑木林を伐り、原料と薪を交互に炉に入れ、焼成した生石灰を下の口から連続に取出す方法であった。生産量は一日六O均づめの俵ほどであり、これをいわゆる「うんそう」で運んだ。近くの立木が無くなり此の仕事は閉鎖された。現在も落した急斜面や炉の跡は残っている。OM此のほか長岡新田で採掘したものにマンガン、水晶がある、これらは石灰と同じように現在では採掘していないが、マンガンを運んで出した跡や、水品を探し求めた跡は残っている。第五節福与地区の地質福与地区の地形は次の三区に分けられる。川伊那山脈の両側を占める中の沢から峯山を含む山岳地帯|山地区仲山地を侵蝕し西方に流下する多くの小河川によって土砂が運搬堆積して形成された複合扇状地|扇状地付扇状地の末端が天竜川の南流によって断ち切られ天竜川の堆積侵蝕を主としてできている堆積段丘地形1段丘右を地質構造上からみると扇状地と天竜川の砂喋段丘の縫合線は円礁と角喋の分布状態及び礁の岩石磯区分、土地等の点から研究されるが箕輪南小学校の東方道路上では腐蝕の進んだ花崩岩の基盤と、天竜川の礁の互層がよく見られ、崖端より五位まで東方に分布しているが境界は斜居である。福与城祉及び竜東の道路からは、


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