箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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この時には上棚の「和方」では蛇抜けの泥が家に入込まない様に上の青回の中に東方から南面の隅へ一文字にL雨戸、帯戸、のし板を聞にして泥のなだれこまぬ様防備した。明治二十六年十一月四日箕輪村役場より郡役所に報告した「安政以降天竜川出水調査表」によると、出水年月は明治元年閏五月十七日で天竜川の水位は町裏で観測した所によると、水位の最高は三尺とあり安政以降の最高を記録しており、洪水前後の天気模様においては次の様に報告されている。「雨は五月一日より降初めて或は晴たり或は曇ったり風が吹荒れ十四日からは雨も頻りに降り続き天竜川の水嵩も増し十七日午後五時にはとうFI大洪水となる。十八日午後二時頃より概ね晴れとなって十九日午後六時頃には全くの晴天となる」又その折の被害状況を見るにおそらく土地に流失、浸水、冠水、埋没、土砂流入等の被害、橋梁、堤防等に於ては、流失、破損、欠壊等の被害、家屋は、床下、床上浸水、土砂流入、破損等があったと考えられる。OO田凡そ一二町歩、畑一ニ町歩余、宅地二町歩余、橋梁二ケ所、堤防一間余、建物二棟。以上蛇抜けOOOのあった頃の状態であって天気にあっては若干の違いがあるが村全体に渉った大災害の年であった。第四節伊那山脈の領家帯の中に三箇所ばかり結日間質石灰岩の露出地域があり鐘乳洞高雄山から熊倉沢北方地帯まで北東の方向に、細いレンズ状の石灰岩地域がある。この両側に高遠花崩岩が入っており、接触しているので花筒岩の接触変質作用を受けで石灰岩は糖品質、さらに方解石の晶出も見られる。また石灰岩をはさむ砂岩、粘板岩もともに変質し、片状ホルンヘルス帯や黒雲母粘板岩になっている。石灰岩の層が薄く巾もせまく、しかも谷の密度が大きく起伏に富み、傾斜が急で雨水が早く流れてしまうので、カルスト地形の発達には悪い条件が多いところである。


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