満州開拓 富貴原郷開拓団の記憶

満州開拓-富貴原郷開拓団の記憶 - 箕輪町郷土博物館開館40周年記念冊子 - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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満州開拓とシベリヤ抑留生活平松俊彦戦後三十七年の歳月が過ぎ去った今日、満州開拓とシベリヤ抑留生活を思い起して記してみたいと思います。私は戦時中の真っ只中に青春時代を迎え、当時日本の国は戦争に勝つため、忠君愛国とか滅私奉公など盛んに戦争用語が使われ、又欲しがりません勝つまではとか、一億国民火の玉だ、などの標語が至るところで目に止って、日本は正に国民総動員の戦時色一色であった。その様な中に、満州開拓青少年義勇軍もその一つで、次男坊として生まれた私はひそかに満州大陸を夢見て、義勇軍に応募しようと心に決めていた。男の兄弟二人で兄が軍隊に現役中であったため、今すぐ応募することが出来ず、致し方なく家の農業と兄の留守を守っていた。間もなく兄も無事帰還をし、私は富貴原郷入植の決意をした。満州へ行くとなれば父母兄弟の承諾をしなければならない。父はどうやら賛成はしてくれたものの、母は俄然反対で泣いていたことを今も思い出す。私の決意は変らず、村役場の係員や田中二一先生などの説得もあって、どうやら母も許してくれた。愈々満州の大陸を夢見て希望に燃え、先づ八ヶ岳修練農場にて一ヶ月の厳しい訓練を受けた。昭和十八年十二月末日に入植予定。同行者は林末一郎君・林周平君・私と三名。三人は「赤い夕日」の歌で村民に送られて故里を旅立った。共に独身者ばかり。私達は戦時下国の政策に沿って満州の未開地を開拓する拓士、その開拓精神に燃えて、今まで生れ育った祖国を後に、新潟港より渡満した。日本海は荒れていた。祖国が次第に遠く離れる。覚悟はしていたものの、心中は肉親と離れた淋しさと恐怖感に襲われていた。愈々大陸に足を踏む。車窓より見る広漠な原野は、すでに一面銀世界であった。夢にまで見ていた大陸、これが正しく満州平野だと、三人は益々希望と感動に胸を躍らされていた。汽車は大平野を北へ北へと進む。少々遅れて札蘭屯駅に到着した。田中二一先生が笑顔で出迎えてくれた時ホッとして、一先ず弁事所に落ち着いた。長旅の疲れをとり、満州の様々な風景を物珍しく見て、愈々団へ行くトラック便を待った。トラックは遂に来てくれない。年内に入植した方がよいとのことで、田中先生と四人、富貴原郷まで歩くことになった。札蘭屯から団まで十八里と聞く。少々驚きと心細さを感じて田中先生の後を歩いた。三時間四時間と歩く。重い荷物が肩にくいこみ、歩けども歩けども丘又丘で実に殺風景。土で造った満人の幾つかの集落を過ぎて漸く団の部落が見えた。あれが花丘部落だよと田中先生は指をさした。ああやっと来たかと思うと、何だか急に気が抜けて疲れがどっと来た。部落の何人かに迎えられ、更に本部へ向った。本部に到着した時は陽は地平線にとっぷりと沈み、寒さも一段と身にこたえた。団長外何人かの皆さんに迎えられ、疲れきった体を独身寮に案内された。土で造った土蔵の様な家にはオンドルと言う珍重な暖房があって、ここで十八里の歩を休め、くたくたに疲れた身を横にした。出迎えてくれた人は誰だったか記憶がないが、同志共に祖国を離れて固い拓士の意思を持った先輩達。その人達の人情の温かさは格別なものを感じた。そして眠りにつく。昭和十八年十二月三十日入植入植して二日目、昭和十九年の元旦をここ北満の広野で迎える。遠く祖国を離れて心機一転、感無量のものあり。初日の出に思わず合掌をする。何を祈ったのか…目を開けば大気流が凍ってきらきら光り輝く。内地ではとても想像のつかない北満の風景であった。正月も少し過ぎた頃、独身寮も作業にかかった。主に薪取りだったと思う。私は団長の命で本部勤務だと言われた。意外の事で強く反対したが、どうにもならず本部員になってしまった。当時本部には団長ほか田中・北沢・小川・植田五人の本部員で、村造りの中心となって懸命に働いていた。私は会議等の書記と倉庫の係を命ぜられて、先輩の皆さんから指導を受け、その仕事に夢中で励んでいた。何日か過ぎた頃、宮下さん夫婦が入植されて来た。我々独身寮特選のポーミー入り御飯を食べてもらった。何ともまずそうな顔で、新婚さんには全くお気の毒だった。ある日、朝本部の裏に「ノロ」の群れを見つけた。私は急いで本部の警備銃を持ち出し、狙いを定めて発砲したところ、不良の銃であったために自分の顔面に爆風をあびて、その場に気を失い、倒れているところを植田さんの奥さんに助けられて命びろいをした事を憶えている。今思い出すとぞっとする。部落の連絡はもっぱら馬に頼り、「赤」(気性の荒い満馬)に乗って広野を思う存分飛ばして連絡の仕事をした。又ある時は田中先生と那知屯の興亜洋行へ出張して一泊、中村登氏(西村あき子さんのご主人・福岡在住)等と飲んで歌って一晩楽しく過ごしたこと。又、帰り途夜になって道に迷い、馬まかせで団にたどり着いた事など、三十七年過ぎた今でも、懐かしく次々と頭に浮かんでくる。召集令状遂に来る戦況も日に日に激しくなり、南方の島々で玉砕したとか、或いは南方洋上で輸送船が撃沈されるなど、次々と悲報が伝えられるようになってきた。昭和十九年五月一日、私にも遂に赤紙が来た。団では二人目だったと思う。本当にくやしかった。致しかたない。(五月五日のハイラル二六四六部隊入隊)早速内地の実家に知らせる。三日団を出征、林周平君が一人花丘部落まで送ってくれた。入植して僅か四ヶ月余り、兵士と同様な拓士まで召集するとは、とても考えられない。仕方なく一人札蘭屯に向って歩いた。五月の丘には様々な野花が咲き乱れ、私を見送ってくれるかの様に見えてとても可愛くもあり、又憎らしくも見えた。途中で陽は沈み、札蘭屯の街の灯りを目当てにやっとの事で弁事所にたどり着いた。五月五日入隊、一期の検閲をハイラルの砂丘で受ける。間もなく牧場へ分遺された。これから乳牛との生活が始まる。軍隊では珍しい任務である。私が開拓団出身ということで牧場勤務にしてくれた。軍隊とは思えない、団にでもいる生活であった。毎日生産される牛乳を各陸軍病院へ輸送するのが仕事である。十一月○○日、チチハル○○部隊へ出張の命令があり、その帰途札蘭屯へ一泊する事が許された私は弁事所へ宿ることができた。丁度打ち合わせたように団長が来ていた。本当に懐かし


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