もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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年度11月13日11月14日11月16日12月12日12月13日12月15日出来事●月命日につき、学校では朝会の際に黙祷を行う。また、牛沢校長と五人の遭難児童の遺族は、法要のため直江津に向かう。『校務日誌』等●牛沢校長と遺族は、10時30分頃長野に到り、善光寺内において五児童のための読経回向を実施。21時頃帰宅。『利典遭難記』●15時30分頃、現地で救助をしてくれた柴清一氏が来校。『直江津遭難日記』●村上先生退職につき、第4時限目にお別れの会(告別式)を行う。『校務日誌』等●月命日につき各自黙祷。『直江津遭難日記』※その後も毎月命日に黙祷・墓参等を実施●6年1組の父兄8名が来校し、村上先生の退職について、父兄として当局へ願い出ることについて話あり。『校務日誌』12月21日●遭難百ヶ日にあたり、六年担任が五家を訪問して霊を見舞う。『校務日誌』昭和18(1943)1月12日1月19日1月30日2月5日2月10日2月15日3月8日3月13日7月15日7月21日8月14日9月13日9月23日10月30日12月●村上先生の公判日につき、牛沢校長・下平教頭・向山先生が伊那区裁判所へ。『校務日誌』等●伊那区裁判所において村上先生の判決あり。同日職員会を実施。『直江津遭難日記』『校務日誌』●この日付で牛沢校長に退職辞令。●牛沢校長退職につき、第4時限目にお別れの会(告別式)を行う。式後、牛沢校長は村内の挨拶回りを行う。『校務日誌』等●牛沢校長の送別晩餐会を実施。『校務日誌』等●牛沢校長が箕輪の地を去るにあたり、児童は9時に集まり校門前でお見送り。その後、伊那松島駅前にて牛沢校長の挨拶があり、9時58分発の電車で箕輪の地を去る。高等科・青年学校・実科女子の生徒は辰野駅まで見送る。『校務日誌』等●新校長として松井源衛氏が着任。『校務日誌』●遭難六か月命日につき、全校生徒・職員で黙祷。『校務日誌』等●三澤英行君の再捜索願を、新潟・山形・秋田・青森・北海道・富山・新潟の七県警察部長あてに発送。『直江津遭難日記』●三澤英行君の再捜索願を、佐渡郡の四警察署へ送付。『直江津遭難日記』●松井校長及び下平教頭が、亡くなった児童の家に新盆見舞いに行く。3年生以上の該当地区の児童は各地区の神社に集合後、遭難児童の家に行き礼拝。『直江津遭難日記』●遭難一周忌法要を北体操場で行う。『直江津遭難日記』●直江津で現地法要を行う。下平教頭・根津先生出席。『直江津遭難日記』●亡くなった五児童の霊が、大阪にある教育塔に合祀される。『箕輪中部小学校百年誌』●この月、中箕輪国民学校が、国民学校児童の生活指導に関する実践的研究を作成(興亜科の設置、興亜科教材の年間配列等)。『長野県教育史』12月24日●「徴兵適齢臨時特例」により、徴兵年齢が1年繰り下げられ、満19歳からとなる。昭和19(1944)4月10日6月16日9月24日10月18日11月24日昭和20(1945)1月●牛沢搏美氏が信濃教育会専任幹事に就任。『牛沢搏美先生』等●成都から飛び立った約50機のアメリカ軍爆撃機が初めて本土(北九州)を空襲。●遭難三回忌法要を実施。その後、高2児童(同級生)が手分けして墓参を行う。『直江津遭難日記』●「兵役法施行規則」の改正により、徴兵年齢が満17歳に引き下げされる。●サイパン島などからのB29による本格的な本土空襲が始まる。●アメリカ軍の司令官がルメイ少将に交替。以後無差別爆撃が行われるようになる。3月10日●未明、アメリカ軍のB29爆撃機が東京を襲う(東京大空襲)。会議のため、東京深川の弟宅に泊まっていた牛沢搏美氏も空襲に遭い、犠牲となる。『牛沢搏美先生』●この月、同級会の名称を搏美六人力会とする。『喜寿を祝って搏美六人力会のあゆみ』4月16日●牛沢搏美先生の信濃教育会葬が行われる。『牛沢搏美先生』昭和23(1948)●9月12日、明音寺において七回忌法要を実施。村上先生も参加。翌日には、遺族・教師代表・同級生代表が直江津へ行き法要を実施。『直江津遭難の記』昭和29(1954)●9月12日、十三回忌法要が行われる。また、法要に先立って慰霊碑の除幕式が行われる。昭和39(1964)●9月13日、同級生主催による二十三回忌法要が行われる。昭和49(1974)●三十三回忌にあたり、搏美六人力会が記念誌を刊行。昭和62(1987)●9月13日、搏美六人力会が牛沢搏美先生頌徳碑を建立し、除幕式を行う。―23―


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