もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~

もうひとつの遭難 ~中箕輪国民学校の直江津遭難~ - 箕輪町図書館蔵書のデジタルアーカイブ


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◆懸命の捜索9月16日の午前11時40分頃、平松訓章君の遺体が突堤の沖合約一里(4km)付近で発見されました。そして現地で火葬がなされ、20日に郷里に帰ることになりました。一方、三澤英行君の遺体は見つからず、船は毎日沖合に出て捜索し、海岸からも双眼鏡を覗のぞくなどして、連日懸命の捜索が続けられました。19日には学校関係者も船に乗り、沖合四里くらいのところまで捜索したようですが、見つけることは出来ませんでした。そのため、三澤君の遺族も平松君の遺骨と一緒に帰ることになり、20日の午後3時頃に伊那松島駅に到着しました。そして、児童や先生等の出迎え・見送りを受け、懐かしい我が家へと帰りました。三澤君の捜索は、残った先生方(※23日まで)や地元の方により以後も行われ、10月21日には新潟県警察あてに捜索願を、昭和18年7月には広範囲に再捜索願を出すなどしましたが、発見することは出来ませんでした。◆事件の説明と学校の対応行方不明者以外の児童と村上先生以外の先生方は、9月14日夕方に帰郷しました。そして、集まった父兄に対して土屋先生が遭難状況を報告しました。翌15日には警察関係者が来校し、土屋先生等から聞き取りを行いました。また、18日には廣岡長野県視学が来校し、引率した先生方と話をしました。20日には平松君の遺骨と共に牛沢校長も帰校し、直後に開かれた村会協議会に出席し、遭難事件の概要を説明しました。翌21日には現地に残っていた村上先生が帰校し、20日に再度直江津へ向った土屋先生等も23日には帰校しました。この間、校長先生と引率した先生方は進退伺を作成し、県の学務課へ提出しました(※19日)。また、22日に村上先生は、親戚の方や下平教頭と共に亡くなった児童の家庭を弔ちょうもん問しました。この時、各家では、村上先生の身上を特に心配してくれたそうです。学校では、亡くなった児童の家庭を慰いもん問するため、9月18日から毎日、職員2名が焼香に行くことになりました。また、牛沢校長は、遭難児童の霊を弔とむらうため、9月25日から当分の間自主的に謹きんしん慎しました。こうした中、25日には亡くなった五児の遺族が学校及び校長先生宅に挨拶に訪れました。その際遺族の方から、毎日の先生方の焼香は、村葬の用意もあり、これから農家も多忙になるので、二七日(ふたなのか)にあたる26日をもって一時中止されたいとの意見があり、焼香は27日で中止となりました。また、9月29日には郡教育会の関係者が五家を弔問、10月3日には校長先生等が学校を代表して改めて五家を見舞いました。こうした中、牛沢校長は9月30日の職員会で、「この事件を基にして大いに墳を発して天下に立つ教育を立つべし」と痛切に話しました。◆五児童の村葬10月4日、遭難で亡くなった五人の児童の村葬儀が執り行われました。この日、午前中はそれぞれの家で僧侶による読経がなされ、同級生である六年生の児童と先生が各霊を出迎えに行き、12時頃に出発しました。各家とも、大旗、写真、遺骨の順に並び、その後ろに児童が並んで行きました。学校では上級生等が校門の両側に並んで迎えました。そして、午後1時半頃から講堂で村葬儀(※葬儀委員長は大槻茂村長)が執り行われました。正面の祭壇には五人の児童の遺影が並び、児童や遺族、来賓や一般会葬者など千余名が参列して、五児童の冥めいふく福を祈りました。式は、開式の辞、読経と進み、すすり泣く声も聞こえるようになる中、弔辞の朗読、焼香が行われました。遺族代表として三澤英行君のお父さん(三澤斉氏)が挨拶をした際は、場内は水を打った様に静かだったと伝えられています。葬儀は午後3時半頃に終了し、遺骨は各墓地に埋葬されました。児童・先生の代表は墓地までお見送りし、その他の児童は校門の内外でお見送りしました。村葬の様子(昭和17年10月4日)―9―


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