箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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この富田の婦人会々則より目的等は当時としては適切なものと思うが賛助員制度はまことに奇異の感がする。そのしごとは役員と同等若しくはそれ以上のもので、発足当初としては無理からぬことながら、現在から考える第2章社会教育と全く隔世の感がある。この賛助員が当時十四名を数えている。婦人会員数幾ばくか不明だが会員三、四名くらいに一人がついていたのでは全く自主的などということは望めない状態であったと考えられる。また東箕輪村南小河内婦人会は、明治四十三年頃東箕輪村婦人会と称して当時の東箕輪小学校長平出大信(北小河内出身)を会長として組織していた。その下部機関として副会長を設けず、幹事若干名をおいて会務を処理していた。また基本金を作るために各戸より玉繭二百匁くらいを集めたこともあった。大正三年二月よりこの南小河内婦人会は会員に拾円くらいの金を貸付けて利子壱割を徴収したこともある。これは基本金をふやす方便であったとも考えられる。大正十二年より南小河内支会長の名が記されるようになった。その他の部落及び村の婦人会の組織及び活動についての詳細はわからないが大正八年及び十年の中箕輪村婦人会の会員数などについて次のような記録がある。これから見ると婦人会は網羅組織でなく任意団体であり各種会員から構成されていたことがわかる。大正十年村民負担額七十一円と記され、青年会千百十一円に比較すると僅かであるから活動そのものも低調であったことが想像される。大正年代の愛国婦人会について、次の通りの記録がある。三等有功章が何人もいるが、その氏名はわからな、ν大正八年愛国婦人会員侃三等有功章者一人特別会員七人義務終了者六十四人義務者七十五人計百四十七人大正十年愛国婦人会村民負担額七十一円


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