箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


>> 984

四夜の宿直室に若い青年が押掛けて、白熱した論議を交わすというような風景がどこでも見られた。諏訪の泉野(富士見町)で藤森省吾が、青年教育に力を入れて成果をあげたのもこの頃のことであった。この頃の部落青年会の事業は、収入事業(水田の経営、労役賃仕事)祭典の準備及び世話、夜学、珠算、研究会、討論会、談話会、兵士の送迎、慰問、朝起会、文芸誌、講演会、視察旅行、共有林、私有林の見廻り、会報、撃剣、角力等であった。大正二年上伊那郡連合青年会が結成され会長に郡長を推戴した。大正三年には郡長長井喜太夫が、連合青年会長であった。この年、会誌第一号が発刊された。大部分の青年会で図書を備付けた。大正八年中箕輪村連合青年会では会旗、会章を作った。この披露式には箕輪四ケ村手良村伊那富村等から参加した選手三百余名によって十二哩マラソンが行われた。下伊那では、自立青年団の運動が活発で、いわゆる官製青年団脱皮の動きが始まり、その影響を受けて、この年青年会自由化の声が高まり、上伊那連合青年会では会員中から会長を選挙した。大正八年連合青年会長阿部貞治郎副会長大槻文雄(箕輪町沢)同副会長松沢一郎が就任した。大正八年度の連合青年会事務報告を見ると次の通りである。大正八年五月七日午後一時於上伊那郡役所楼上、評代議員会開催会長新任の拶挨大正八年予算変更に関する件中堅講習開催地選定に関する件視察旅行に関する件


<< | < | > | >>