箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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当時の様子が信濃毎日新聞の七月十五日、十六日、十七日号に大きく掲載されている。五名の児童の遺体発見は遭難後四日間に及んでいる。旅行隊は九月十一一一日朝、四時四二分の伊那松島駅を出発した。春日山、国分寺の見学をすませ、ったや旅館に旅装をといた直後のできごとである。「校長現場へ急行」「引き返す利那に:::申訳ない」「かにつりに惹かされて」「哨差のできごと」「かなしみの遭難||学童の家庭」「一俣の母親の談」「声なき帰校」「西駒遭難三十年目」、新聞紙上の大きな活字をひろってみても、中箕輪国民学校の遭難は大きな事件である事がわかる。直江津突堤三十年後の現在は、昔のおもかげは何もない、外国航路の巨大な荷物船を横着けして鉱石、各種工業原料などを巾二メートルもあるベルトコシベアーが、頭上を流れて倉庫に送り込まれている。近くには佐渡行PTAきのカーフェリーの発着場がある。第七節戦後の教育当初は戦時色の払拭である。これは占領軍の徹底した指示によるものであった。続いて新学制、六三制の導入がある。現行の小学校六年、中学校三年の義務教育に続く高等学校三年、大学四年の制度である。各町村は、従来の高等科を廃止し、小学校卒業生全員を収容する、いわゆる新制中学の設立を迫られ、文青年学校の廃止やいわゆる新制高校の設置と、大きな改革が進められた。後に町村単位の中学は併設の、いわゆる独立中学となり、組合立高校は県立高校となった。教育委員会の設置、の誕生、学校給食開始、教員組合誕生、プール設置等此の二十五年間には教育に関するすべてのことに、大きな変革を経て現在に至るのである。文部省は八月十五日付で、「終戦ニ関スル件」を各学校に発した。内容は「戦局ト世界情勢ノ急変ト残虐ナル爆弾ノ出現トハ遂ニ未曾有ノ困難ヲ結果シ」た事になった。これを深く反省し、激情を戒め、教学を再建し、国


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