箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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他三銭となっている。HO.-L...ノ、富田分校場と古田分教場の合併明治三十七年は日露戦争の年である。此の年一月上古田惣代及び富田惣代二名より、村長宛に上申書が出された。富田分教場を廃して、古田分教場へ合併する。古田分教場を移転する。移転は関係部落でおこない村税を仰がないという内容であった。此の上申書を出して二ヶ月後の三月に、請願書を区民惣代八名が村長に出している。とれには、「富田区ノ教育事務ヲ西箕輪へ委託セシトノ御内意ナルヤニ聞ク」が、明治二十七年に今回同様に西箕輪に委託したが、区民が応じない為解消した。今回も「到底区民ノ服従シ能ハザル次第」につき現在位置へそのまま残しておくことを請願している。この二つの資料から合併、新築の問題は、一方を委託する方針をきき、取消したのであろう。その結果富田分教場は、四十一年まで存続した。なお富田分教場の問題は明治三十四年五月二十八日に村会に於て、郡長よりの指示である富田分教場廃止、西箕輪委託の問題をとりあげて「西箕輪村委託ノ義否認致シ候」となっている。明治三十一年の学級編成現在の小学校の学級編成は四五名、つまり四六名になると二学級となり、一一一ニ名の学級が編成される。二学年Oを同じ学扱にすることを、二連級といっているが、これは二名以下である。三連級は現在解消したが、この計算から考えると、中箕輪常尋小学校は、八学級、木下、沢、古田が各四学級、富田は二学級となる。いわゆる「厚飼い」ということばが残っているが、養蚕の盛なる頃のたとえであったこのことばが、当時の教七


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