箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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Oは三人を目やすとしていた。明治八年二月松島、木下、上古田、下古田、沢、大出、八乙女、富田、中原新田の各村が合併して、中箕輪村となり、長岡、南小河内、北小河内と、三日町村と福与村は東箕輪村となった。明治十三年、三日町、福与が箕輪村となるこの頃、各校は校則をつくり控所に掲示した。「第一条生徒入学ノ上ハ何事ニヨラズ教員ノ指揮-一従フヘキ事」、から始まり、登校時限、登校路、教員相互、書籍、教場、試験、清掃、服装、日間時限、欠席、遊び方、休暇日、授業料納入にわたり一二条を作った。また、教員養成の師範学校も設置され「官立小学校師範学校生徒入学心得」の出たのもこの頃である。師範学校生徒、行状正フシテ普通ノ書ヲ講読シ得、且略算術ヲ学ピ得タル者ヲ挙ルナリ」が第一条で保証状、履歴書、入学試験内容、身体状況、「年齢ハ二十才以上三十五才以下タルヘシ」官給一ヶ月に八円、中退禁止などとなっており教育振興のために、教員養成の師範学校の充実を期している。この師範学校を卒業した者には、証号が与えられ、「此ノ証ヲ得タル者ハ圏内小学校ノ訓導タル事ヲ得ル者也」となっているが裏面に「此証号ハ五ヶ年ヲ限リトス。満期ノ後、猶教員タラシト欲スル者ハ学業ヲ検査γ更ニ証書ヲ与フヘシ」生涯の免許状が普通であるのに、五年間の期限付の免許状で、五年後に改めて学業試験を行なって、その結果によって継続する仕組みとなっていた。教師自身が、先づ学ぶベしの意図が察せられる。権令の巡視と試験権令巡視がおこなわれ、その折近隣の学校より生徒を集めて試験を行った。此の時、区長、戸長、世話役の出席を求め試験を参観することも許された。生徒は各校別でなく「連雑」して試験を受けさせた。一教室一の生徒数試験は八級より順次おこなわれた。五


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