箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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る迄伍長惣代が取纏め戸長役場に差出し、耕地住民の経費節減につとめている情況であるので、此の苦情について各耕地の総代が協議をした結果、長岡、南小河内、北小河内の三耕地は東箕輪村に'措置、福与、三日町の二耕地を旧二ケ村に復することを許可されるととを戸長、各耕地惣代が連署で長野県令に願書を提出した。前記のように合併は原則には広域行政の政策から強行されたこ之であるから、分村はなかなか許可されず、福与、三日町は再三再四追願書を提出したので郡長としては、福与、三日町を一村とするべく説得したが、同意をしないので、願いの通り許可する以外はないとの方針を含めて、県へ回答し、県は内務省と種々協議の経過を経て、明治十四年八月十日に至って分離が認められ、福与村、三日町村となり明治三十二年四月の町村制施行まで続き、この時の村が大字になって、箕輪町では中箕輪、東箕輪と福与、一一一日町が大字となって残ったのである。昭和二十九年十二月三十一日伊那市より中曾根が分市合併をして、現在の五つの大字になったことは、村落合併と分村、分市の歴史を物語っている。このことは、興味深く思われる。字近世江戸時代の検地帳を見ると、一番先に地名が出る。次に田畑の等級(上中、下)があって、次が所有者となっている。多くの場合田、畑の検地結果が記載され、屋敷、墓地、山林、原野、河川敷の地名を見付けることは、困難とされている。明治政府となって、明治六年七月に地租改正法の発布にもとづいて、いわゆる地券制度による耕地の等級、地価の算定、地租の金納と、政府の基準にしたがって新らしい行政の一環とし実施され、等級の変更、地価算定の改定については、常に変更、更正がなされてきた。地名については、明治二十八年根基の「土地台帳」の地名が、昭和二十六年六月一日に公布された「国土調査法」の地籍調査事業を町が実施にともない完成地区より「字界変更」の手続を採って、長い歴史と住民になじまれ、親しまれた字名が「中箕輪地区と東箕輪地区一部」から抹消


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