箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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昭和四八年一日平均四八人O自動車の急速な増加は、電車利用者の漸減となって表われている。往時、諏訪、岡谷方面への通勤客で、ホーOムあふれるほどの頃から考えると、今昔の感にたえない。木下駅木下駅は明治四十四年二月に、松島木下聞の開通にともない、営業開始をしている。一時は松島におとらなLいほどの商庖街もあり活況を呈したが、村役場、小学校などが松島に新築されるに及んで、駅の乗降客も松島より少なくなった。その後、箕輪工業高校の木下への移築等もあったが、駅の業務も順次縮少して昭和四十七年四月より、職員三名の委託駅となって現在にいたっている。一日平均の乗降客数次のとおりである。一昭和四十一年一一、三七七人一一四十二年一一、三九四一一四十三年一て二二一O荷物の取扱い伊那電が荷物の取扱いを開始したのが大正二年のことである。この時、荷物取扱いの業務を委託して引受けたのが伊那松島駅前の加藤運送庖である。加藤武男が代表者となり、はじめは小さい荷物を主として取扱った。これが基礎となって後に伊那通運となり、日本通運へと発展してい昭和十八年八月一日伊那電は国鉄に移管となり、飯田線となってその業務を引ついだ。それに先だち飯田線沿線の運送業者は、整理統合木下駅


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