箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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住民の交通機関としてだけでなく、軍需物資の輸送という一役もになうようになった。また一方では、当時の鉄道省は圏内鉄道線の延長敷設を計画していた。この計画に相呼応して地域住民はその営業状況も好調でない伊那電を国営移管して、地元の利益をも、もたらすように考えた。こうして昭和十五年七月沿線各町村は、伊那電をして国営移管となるよう各町村議会の決議を経て陳情していOJる。その理由としては「国家的見地ヨリスルモ地方産業開発及地方民福利増進ノタメ」と訴えている。OOOこの数年前昭和十一年十二月三十日に豊橋辰野聞の全線開通を見ているから、この時点で国営移管のことが緒についたともいえる。これから前記、沿線住民の運動もあり、大平洋戦争推進という理由によって昭和十八年八月一日国営移管となり、それまでの伊那電気鉄道は、国鉄飯田線として発足した。従ってこの時点で、伊那松島、沢、木下の箕輪町の三駅は、国鉄線の一駅として全国各地国鉄各駅への乗車券発売も可能となった。伊那電当初の電車も、国鉄移管そして、終戦後の輸送力増強のためにスピード化が考えられた。このため、昭和二十七年五月から快速電車の運転となり、伊那松島駅がその停車駅となった。さらにこれが準急電車として昭和三十六年より運行されるようになり引続き、伊那松島駅が停車駅となり、箕輪町住民の東京、長野方面への利用がふえた。特に急行天竜、こまがねなどが運行されるに及んで、辰野乗りかえがなくなったので一層時聞が短縮され、伊那松島L新宿間四時間半、伊那松島|長野間二時間半となって、その利用客も多い。乗降客変遷伊那松島、沢、木下の箕輪町の三駅乗降客人員は次の表のとおりである。昭和七年、八年、十一年のものは乗降客の合計であり、昭和二十五年以後は乗車、降車の別人員である。この表から、昭和初年の年間延三四万人の乗降客が、終戦後の二十五年ともなると延一八万人をこす人数となり、昭和三十五年ともなると延三万人を上まわる乗降客となったという増加ぶりである。また昭和四十五年以降自家用車などの増L加によって、漸減の傾向にある。


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