箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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接して工場設備の大拡張を企画し、大正十二年六月現工場に移転せり。其敷地四、二余坪、建坪合計一、二OO余坪を有し、工作諸機械は英米の製作に係る優良完全なるもののみを設備し、規模まだ大ならずといえどもその質に於て完全なるものなれば、将来における発展期してまつべきものあらん。上伊那郡誌によると、伊那電気鉄道では大正十四年、労動組合組繊を計画した指導者を、会社側が獄首したために、総同盟本部は大正十四年十一月一目、地元野溝勝とともに、従業員によって信州交通労働組合伊那支部を結成した。大正十五年五月二十四日、従業員約半数の三名が組合幹部の転勤反対、待遇改善の要求をだし、ストライキにはいった。当時の伊那松島の関係する従業員中、運転手、線路工夫、電灯部工夫等によって、ストライキのデモ行進が、当町において初めておこなわれた。デモ行進の先頭には、警察官が四人と横に一人が警戒にあたり、労働者は、「信州交通労働組合伊那第二支部」の旗の下に二列従隊に整然と松島の町中を行進した。この争議が当町における労働争議の最初であった。OO飯田線となって国営移管伊那電気鉄道も昭和の年代にはいって、通勤通学等にも利用されるようになった。当時の中等学校〈伊那商業、上伊那農業、伊那高女、伊那中、赤穂女子実業、赤穂公民崎一寸)の通学には大凡二旦(八キロメートル〉以上のものは、沿線では伊那電利用が多かった。また数としては比較的少なかったが、会社、工場、学校等への通勤者も利用した。従って朝夕が混雑して、昼間や夜間などの乗降客は少なかった。こうして伊那谷の住民の足として重要な位置を占めてきた伊那電気鉄道も北支事変の勃発により、ただに地域


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