箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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て、上・下伊那における塩嶺トンネル問題に終止符をうったのである。伊那電敷設について関係町村に補助や寄付を求めた。これは交通機関としての公共的性格よりの要請はもとよりであったが、一面工事費の莫大なるにより、関係町村に寄付を求めたものである。中箕輪村にあっては、大正十二年金七三円一七銭より順次減じで大正十六年度の二二円七四銭まで計一九八円一三銭を寄付する旨村議会で議決している。また箕輪村では大正十二年九円八五銭それから毎年寄付し、大正十六年度三円六銭、計二六円六七銭を寄付すると決めている。当然沿線町村の寄付はあったものと思われ、東箕輪村もその例外ではなかったであろうし、近隣の南箕輪村、伊那町等も応分の寄付をしたものであろう。株式会社として発足しながら、住民の交通機関という多分に公共的な性格が、村費補助といった形となったであろうことは、想像にかたくない。伊那電電灯部長野県ではじめて電燈のついたのは明治三十年九月長野市内に電燈二十燈を点じ従来のガス燈を廃止、続いて明治三十一年五月十一日長野市内の家に電燈がついた。明治四十四年五月長野電燈株式会社は佐久、伊那に支社をおき全県下に配置を完了したとある。箕輪町にはじめて電燈のついたのは大正三年一月一日のことで、松島及び木下にはじめて電燈がついた。大正十四年に伊那電では農村電化計画を立て、従来より一層の家庭用電燈及び事業場電力使用の普及に力を入れた。箕輪町では、伊那松島駅前に電灯部出張所が作られて、中箕輪村を中心とした地域一円の電燈についての新設、修理及び料金集金を行った。伊那松島駅東には鉄筋コンクリート造りの変電所がある。松島工場また伊那電気鉄道開通記念帳、大正十四年五月三日発行のものによると、松島工場の概観及工事の


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