箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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辰野||西町間五銭哩三分西町||羽場間一一銭一一一一一羽場||沢間六銭一一一沢||伊那松島間八銭一六五四計辰野||松島間二三銭〈通行税トモ)この電車賃の決定により、当時(大正十二年)郡役所より達しが出て、出張旅費支給について伊那富村中箕輪村聞は、鉄道哩程によって計算することとなった。伊那電と関係町村伊那電気鉄道敷設の工事も順次進んできたが、まだ上伊那地籍のみに止っている時点で、これを浜松まで延長しようという計画が立てられた。これを仮称遠信鉄道と称して、計画実現のために運動をはじめた。O大正九年、こうした運動の一環として中箕輪村長が請願をしている。この請願書は関係上伊那各町村長に於て連署して提出したものである。その内容に明治三十五年篠ノ井線が塩尻迄開通され、明治三十八年には日露戦争の為工事中止となっていた富士見|岡谷聞が開通し、岡谷|塩尻聞が結ばれず当時国では、今問題になっている塩尻峠を隆道で結ぶことを強調してきた。当時代議士で鉄道局長伊藤大八を先頭とする伊那谷三十五万の住民運動に凱歌が上り「いわゆる大八廻り」によって、辰野経由が明治三十九年実現して東京の文化、経済の恩恵をうけると共に、伊那電鉄発生の原因となった。両郡民は浜松と結ぶ伊那線の実現と塩尻峠隆道反対を大正十五年に各町村が挙げて国に請願陳情を行なった。当時中箕輪・東箕輪・箕輪の各村議会では大正十五年一月一斉に請願を議決し、時の内閣総理大臣加藤高明、鉄道大臣仙石貢あてに反対の請願をしているが、その内容を見ると、「過般閣議並鉄道会議における決議を聞くに政府は鉄道中央線塩尻|下諏訪直通線敷設案を帝国議会に提案して協議すると聞いているが、この案が国策上やむをえないものとすると、反面伊那谷三五万の住民と限無い資源を有する上・下伊那の交通運輸、産業文


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