箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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沈枠弐組但し高五尺六尺四方一合掌枠三十間但し高六尺」上願文によると、これは十月に戸長役場より各耕地に調査があった際の調査洩れの追上顕である。この調査で全町的にどれほどの要普請か所があり、どの程度許可され工事が行なわれたかは明らかではない。明治三十年には、天竜川沿岸の総称大出堤防と松島鉄砲島堤防が完成している。角石積で基部には木枠沈床をはめた堅固な堤防で、大戦後逐次改修さるまで長らく天竜川の氾濫に耐えてきた。現在も大出下に当時のままの姿で残っている。ここには築堤後内側に土砂が堆積し、終戦後水田となった。昭和三十八年大阪井の頭首工を設置した際堤防が新築されて、いわゆる大出堤防は、全くその役目を果し終わったのである。大出堤防の潰地として、有賀代大正12年帯無川護岸工事一O円七五銭、内帯無川分約三円、深沢川分約一一円の予算でOOO次郎の九畝二歩、相当代価四九三円を最高に、一二名が字前河原、O中河原‘川垣外の約二反歩、相当代価一四八円余を寄付している。O明治三年には、支流の帯無川、深沢川の水害復旧工事が、総額四O決議されている。明治三十九年には、七月十六日の大洪水で決壊した帯無川堤防の復旧工事を行なっている。工事の内容は、土砂堤延長四六間O右腹付延長四六O間O沈枠五個工費二、八五三円六O銭


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