箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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である。これら上古田の規約を見ると、実に詳細に、出穀から保管、貸付から返納、その他予想される特例(返納の延伸、減額等〉まで加えて具体的に取極められており、利子の低率と相まって隣保扶助的な趣旨で運営されていたことがわかる。こうして郷蔵に貯えられた籾も、その品質が低下していき、捨てねばならぬようなことになってしまうこともあった。これでは貯穀の穀物が何年かたつと損失処分をせねばならぬので、こうしたことを防ぐため、何年かたっと穀物を売払って、新しい籾や麦を積込むということを行った。明治二十二年十二月の木下区の「郷蔵籾子売払決算」によると、籾一一五俵を互いに分けて売払っている。それぞれ第一番ロより四番口まで二四俵、五番口だけが一九俵で、これを総額一三円九八銭八厘で落札し、諸雑費三円三八銭八厘を引いて差引一一一七円六銭が入金となっている。これを次の貯穀のための資金としてくり入れたものであろう。こうして貯穀のための会計も明確にして凶作に備えたものである。上古田の貯穀請書を見ると籾六斗六升一合、大麦三四石を貯えて〈明治十三年)いるから、この割合から見ると中箕輪村全体に比し、籾が少なく、大麦が多いということになる。各部落の実情によって種類、数量など加減をつけたものであろう。Oまた、その数量についても各村とも大体同数量ぐらいであって、麦、雑穀について若干の差が見られる。これは麦、雑穀等のその年の収穫高などによって差があるものと思われる。しかしこれだけの数量を貯穀するということは、天明、天保等の凶作にこりた農民の苦しい経験から出たものである。明治三十一年より明治四十年の十年間の貯穀貸付、取立状況を見ると、凶作が毎年ということではなく、端境期における利用者と個人的な不作による者が、大方である。次の表を見ると利用戸数が少ない時で七戸、多い時で四九戸を数えるが、日露戦争のあった明治三十七、八年の利用者が特に多いことが目立っている。この制度の存在が大いに利用されて、農民に歓迎されたことは、切実なる食糧確保と農家の経済上のやりくり機関としての


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