箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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に関係するものや、その年のえとにちなんだ虎や兎などの出し物も多かった。戦時中はその色彩が出て、出征兵士などもかぎられたことがある。これら人形を借りたり、衣裳を考えたり、地元は何日も前からこの準備に忙しく、かぎりおわってほっとしたものである。十日の夕方、寒風吹く中を近郷の人たちは、みんな歩いてこれを見に出かけた。夜になると花火も、打ち上げられて、夜空をいろどり、ふくかざり、だるま、飴、さては名物の板あめ等を売る商人の呼び声とともに祭事の一環としての「あめ市」は一段ともり上った。第六節終戦後の商業終戦後の一時期は、戦時中に引続いての物資欠乏の時代であって、国民の生活は極度にきりつめられたものであった。商庖の届先には、物資の不足から、粗悪な品物がそれも少なくならべられるという状態であって、箕輪町とて例外でなかった。こうした状態も、アメリカの占領政策の一環であるシャープ勧告、ドッジライン等によって、経済安定の方策が施行され、だんだんと経済活動も安定にむかつた。箕輪町でも、統制下に統合あるいは一時開業した商庖も分割開庖、あるいはふたたび開庖ということが行われて昭和二十五年の朝鮮動乱、続いて二十六年以降の世界的な好況によって、戦前以上の町並みの復活となった。特に松島の仲町、通町、本町一帯は新規開庖といったところも多くその数もふえて、箕輪町の商業の中心となった。特に国道一五三号線としての幅員、舗装ということと相まって一層の賑やかさを加えた。また通町から本町にかけての宿場の名残りの「かぎがた」の道(ますがた〉も、交通量の増加にともなって、まっすぐに、通るようになり伊那信用金庫箕輪支庖の移転等もあって商業の振興となった。昭和四十九年度商業統計によると箕輪町の商業は次のようである。この表より見ると、大半が小売業であって、販売額もその約七割が小売業で占めている。戦後よりふえた卸売


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