箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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ともいうべき何でも屋が二軒あるのみとある。したがって商家の態をなさず、青年達がどのようにこれらの商売とかかわっていたか等も書いてあり、松島とは対照的な様子であったことがうかがえる。この頃は木下は相当に商業活動がさかんであったが、具体的な資料が見当らない。また明治四十二年にして既に商工会の機関のあったことが記され、福引売出しなどについての決議実行をしたとある。それから六十年以上を経過した今日まで、この計画が続いているのは興味深い。第四節大正期の商業大正年代にあっての中箕輪村、東箕輪村、箕輪村の商家総数については、確実なることはわからないが、大正十年において、中箕輪村及び箕輪村が村税として、営業税附加税として、次の通り賦課しているのでその職種の一部がうかがい知ることができる。染写理湯飲料職物物真髪食理業品案業業屋屋庖庖工箕輪村一一一二七六六人人三人O人人八人七人二人三三四、.ーZ』【占-ノ一一一人人人人人村の事務報告を見ると、商工業の状況は、製糸業の発展は急速の進歩をなし、釜数の増加は近年になくその伸びを示したが、一二月中旬にいたり、急転して財界は大不況となり誠に、憂慮にたえない状態となった。他の工業には別に影響はなかったが、商業においてはことに、繭糸べ米等の物価4の変動による影響は殊の外大きかったようである。金融の硬直状態となって、伊那、辰野の中間にあるため、左右の追迫は当然であり、これを免がれることはいたって困難であり、一層苦しくなるだろうと、時の村議会に報告している。


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