箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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工業製品出荷額も、昭和三十四年の約九億円より昭和四十六年度の約九三億円と一倍の発展を遂げている。最近にいたって箕輪町内工場はその数約一有余に及び、その工場の作業内容においても、電子、電気部品、時計部品、食料品等多種にわたっている。その規模、従業員数一名以上のものもいくつかあり、今後の工業の発展が有望祝されている。第二節明治初期の商業商品の流通明治初年に於ける商業の中心地は高遠藩城下町の西高遠町であって「長野県町村誌南信篇」によれば高遠の商業を営む者二五O戸に対し伊那村(現伊那市〉三戸であり、中箕輪村二八戸であって西高遠と赤穂村六三戸についで中箕輪村であった。OO中箕輪村特に松島は宿場として栄えたところであるから商家のあったことは当然であろう。明治初期の商品流通状況を「長野県町村誌南信篇」で見ると、中箕輪村及び東箕輪村の項に次のようにあげられている。箕輪村は東箕輪村に含まれている。これで見る限り、中箕輪村及び東箕輪村の物産として、めぼしいものは極めて少なく、僅かに絹糸があるのみで、他は農業生産物に過ぎない。従って農産物を売買するといった経済が主となっていた。この中で、食用以外の藍葉、煙車、石灰等が工業用原料として売買されていた。OO「中箕輪村絹糸二百貫目以下百貫目以上横浜へ輸送、海外諸国と貿易す。米穀、豆、藍葉、油荏、菜種ノ類僅に隣郡へ輸す。O69()


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