箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


>> 681

綿打機械一製材用鋸一独立漁業二一こえて大正十一年に軍需調査工場事業場を調べている。これは第一次世界大戦の結果、軍需品の補充円滑をはかるために大正七年四月に軍需工業動員法が制定せられこれによったもので、中箕輪村としては製糸工場一一、外九工場に就いて調査票八枚を提出したという。当時の調査票がないのでその工場がどれかは明らかでない。O大正六年、富田にで白鳥政範が凍豆腐製造工場をはじめ、十月十七日より諏訪郡役所で開催された長野県副業品展覧会に凍豆腐一点を出品している。この凍豆腐製造は高野豆腐として、高野山近辺で作られたものを、この伊那地方においてはじめた。当初製造職人は和歌山県より招いて生産にあたらせた。また長野県副業振興製品として推せんも受けている。また同十一年四月二十二日より三日間中箕輪小学校で松本式機織講習会を聞き講習生二四八名と記録されているが、細部はわからない。昭和の工業昭和初年の工業はまだまだ町産業が農業中心であったから、その比率も極めて少い。昭和二年では常時五人以上の職工を使用する工場(中箕輪村)は僅か一五工場にしか過ぎないιうち製糸王場が↑0で酒造ニハ山岸、・松野屋〉凍豆腐(富田白鳥政範)染物(織)金沢織物工場と伊那電松島工場のみである。。昭和二年工場統計(中箕輪村)常時五人以上職工を使用する工場一五酒造糸凍豆腐電車関係織物製O


<< | < | > | >>