箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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右のようで箕輪町農業協同組合の本部を旧中箕輪農業協同組合の位置に定め、東箕輪事業所、箕輪事業所と、大出支所を以て構成した。これにいたるまで、各地区とも部落懇談会を聞き、組合員の理解と協力を得て円満裡に、三農業協同組合は合併したのである。箕輪町発足以来懸案となっていた町内三農協の合併は約十ヶ年にわたる準備期を経て実現を見たわけである。合併後、昭和四十七年度に於ける組合員及び役職員の状況は前頁のとおりである。第四節その他の機関農業委員会終戦直後の昭和二十一年臨時農業生産調整法ができて食糧の主なる米についての割当供出等をする食糧調整委員会と農地の広い面積の私有を廃止し、土地の再配分を目的とする農地委員会が誕生した。昭和二十一年十一月選挙によりえらばれた農地委員は、農地改革という大きな仕事をもって活躍した。この委員会は、三つの階層(小作・地主・自作)より選ばれた十名の委員により構成された。第一回の委員会長は、中林仁一郎であった。との委員会は一つの行政庁であって、農地の買収、売渡し、農地調整などすべての農地事務を扱った。その後、昭和二十三年に食糧確保臨時措置法の制定によって農業調整委員会ができ、また翌年農業改良助長法の公布とともに農業改良委員会ができ、改良普及員の駐在など、うつりかわりはあったが、農産物の増産と米の供出割当と確保がその主なしごとであった。一方、農地の再配分を目的として発足した農地委員会は、地主の農耕地私有を一ヘクタールまでと制限してそれをこえる分については、小作人に開放するという方法を行った。こうした農地の平均化をねらった改革は幾る。


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