箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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表(明治8年〉印紙請量覧印紙枚数|内訳|蚕種製造人村氏名100枚国内用50枚輸出用50枚木下村小林弥九郎ノゲ50枚グ50枚掛合30枚グ木下彦四郎グ10グ1011有賀徳太郎グ55DゲグDア10グ11北条孫三郎10グ掛合10グ小林清五郎20グ国内用20Jケ木下東三郎10が101120グ2011城取新四郎11グ10グ10木下孫八10ググ10必P内山勘一郎50グ松島村千葉半四郎夏蚕50庁2020ググ日野弥総大出村井沢七郎55111011国内用2011沢村大槻嘉十郎F2022グ福与村三浦金八F12圏内用1040011国内用50枚輸出用350枚長岡村関文造5011F20グ30関織右衛門11O蚕種製造人組合信精組の結成村の九人が最も多く、枚数では長岡村の闘の四五枚が輸出用である。箕輪町関係者の総予定数は九二枚で、内五五枚が輸出用である。村別では木下O町外を含めた組内総枚数は三二ハ六枚、一一一一一枚で、これは組内でも最高である。組の総人数は五十九年で、箕輪町の一六名が最も多く、次いでは久保村の一一名であった。八年の製造量は、七年にくらべ大幅に減少したものと考えられる。蚕種輸出が好況だったのは明治三年七月までで、普仏戦争後、イタリア、フランスにおける蚕種製造の復活などにより、輸出量は年を追って減少していた。それにもかかわらず、政府の指導のまずさもあって濫造が続き、横浜港に堆積する蚕種を焼却する事態になった。こんな事情から、八年には蚕種原種の掃立を委託しなかったもののようである。明治八年二月、蚕種製造の取締りを強化するため、政府は蚕種製造業者に組合を結成させる条令を発布した。そこで小林弥九郎等、大体筑摩県管下の範囲と思われる業者の有志一、一四四名で、信精組OOO


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