箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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翌昭和二年の春蚕の減収は、「本年ハ近年ニナキ大霜害ニカカリ、世間一般掃立ヲ減少セリ、依テ上族期-一至たくさんリ昔人ノイウ通り霜害年ノ桑沢山ヲミル:::。」のように、霜害によるもので、この年は晩秋、二番晩秋蚕まで、飼育するものがあったが、全村的には減産であった。昭和二年からは、西天竜耕地整理が始まり、昭和四年までには、半分近く開田が完了し、相当量の桑畑が減反されたと推定されるのに、その後も産繭量が漸増し、昭和五年に再び年産八万貫を超す第二のピLクを迎えたのは、次のような理由によるものと思われる。「昭和二年秋西天竜開田シタルニツキ、本年度ハ長畝ノ春蚕桑三反歩ト畑ノ夏蚕桑一反八畝減ジタル筈ナリ、然ルニ本春陽気の加減-一テ霜モナグ、桑ノ成長シタルコト今迄ニナキ程至ル所桑ガ出テ、拾四枚掃立テシ処、春蚕畑壱反七畝程残桑トナリタリ:::。」この年の総収繭量は一一一貫Oで、前記の通り桑園減反にもかかわらず、開目前同様の結果であったのは、桑のできがよかったからである。三たくさん年がよくて四年にも霜がなく、五年は「初春当時ヨリ咲キ成リ能ク桑沢山ニテ桑買人更ニナシ。」のように一般に桑作に恵まれたことに一因がある。また、開固による減桑に備え、問団地区外を開墾して予め造畑していたも大きく原因したし、多肥育桑、共同908070605040302010明大昭222732374238134914一戸平均収繭量(上伊那郡誌、中箕輪村事務報告書、上古田報告書、市川養蚕日誌より作成)稚蚕飼育等養蚕技術の進歩などが相倹って、表のような産繭量となったにちがいない。しかし、造畑などにも限度があり、六年以降産繭量が急減したのは、開田による減畑が主因であった。養蚕経営規模を次表にしたがって分類すれば、大養蚕以上に属する養蚕家は、前記市川家など全町的にはかなりの数に上ったと思われる。


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