箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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第8章蚕糸業第八章第一節蚕糸養業明治以前の養蚕業養蚕の最盛期であった大正末期、長野県は日本一の養蚕王国であった。当時上伊那は下伊那、小県に次ぐ養蚕の盛んな郡であったが、箕輪町は郡下でも養蚕が盛んな方であった。大正十四年における箕輪町の養蚕戸数は約七円に比較すると、約三、五倍に当り、農家経済を支える上で、養蚕がいかに重要であったか明らかである。しかし、この養蚕業も発達したのは明治以後のことで、江戸時代の文政年問、松島村の樋口雄貞が「養蚕全書」をあらわし、その中稿が雄貞の親戚である木下の小林孝行家に現存していることから、当時箕輪町において養蚕の行なわれていたことは確実と推定されるが、どの程度のものであったか裏づける記録は発見されていない。明治以前の養蚕に関する記録としては、元禄十六年長岡村差出帳に「一蚕少シッ、御座候、蚕モ少シッ、ヵイ申候得共売買程無御座候」とあるのが唯一のもので、その他の村明細帳に、産繭の記載がないのは、それが自家用程度の徴々たるものであったからにちがいない。恐らく幕府の禁絹令や本田畑桑禁止令等穀類重視政策が、その根本原因であろう。蚕業


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