箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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朝日(関係部落平出)一二O町歩伊那富(関係部落宮木、宮所、新町、羽場、北大出〉六三O町歩中箕輪(関係部落沢、大出、下古田、八乙女、上古田、富田、中原、木下、松島)八一町歩O西箕輪〈関係部落中曾根)一一一一一町歩計一、五七四町歩飯田事件長岡区と三日町区との境界争論は、飯田事件といって明治二十五年より大正四年まで、実に二三年Oの長きにわたって続けられた。長岡区の主張する境界字郷沢、ウツ木塚を起点として、桐山沢、シシナン峯、上ノ平を見通し、樽尾沢、青木ケ沢、二股、同沢O口より黒尾沢水を境にして白崩に至り、樽尾沢、栢平を終点とする。三日町区の主張する境界字郷沢私有地ウツ木塚より桐山沢、シンナン杉、桑沢口より横断し、樽尾沢、青木ケ沢右尾根よりムジナ岩を下り東側を横断、長アラシ峯、それよりシシャケ平八分を見通し、赤嵐を終点とする。この境界線の相違が、お互区民を盗人呼ばわりすることになり、幾度かの喧嘩があった。それが度重なるうちオウオウにとうとう殴打事件をおこした。これに対抗して殴打の上、持物を奪ってしまった。こうしたことから裁判事件となり、飯田裁判所において加害者は有罪となった。その後も境界線が確定していなかったので、小ぜり合いと喧嘩がたえなかった。植林事業その他不都合なことが多く、漸々に解決の機運になり、時の郡長及び東箕輪村長小林石夫、箕輪村長白鳥彦八等の仲介により大正四年十二月、郡役所において示談成立をみた。北小河内樋沢山山論元禄以来、樋ノ沢の原野二一町一反は、辰野町樋口と、北小河内漆手(漆戸)、久保の入会山であった。この山について久保部落から入会権を解消し、分割しようという問題が出た。これがこじれて争


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