箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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米農{乍作物第二節明治年聞の米作中箕輪村上古田に次のような文書があり、明治三年当時の上古田区の米の収穫量をうかがい知ることができる。村の戸数七九戸、米の収穫量七七石余である。この戸数の外に、村の正全寺が一口としてまた村、中原が、それぞれ一口としてあげられている。O最近の戸数一一余戸とくらべるとずっと少く、また米の収量も極めて少ない。その当時としては田の面積も概略のものであり、いわゆるかくし回と称する無届けの回等もかなりあったと思われるので現在の上古田区の米収量よりはずっと少いものであった。また木下区全体としての田の総計を次のように記してある。総面積約四十町歩、勿論西天竜開発前であるので天竜川西岸の分がその大半を占めている。国の紘一寸級を表わすのに赤や青、寅等などの色別とした点は何の理由を示すものかはっきりしない。切開固というのは、新しく開国したものであり、畑田というのは畑を水田に転換したものである。〆反別三十九町二反九畝十三歩責青赤赤赤(一等田)(二等田〉(三等田)(四等回〉五反九畝六歩三町六畝一歩一町二反六畝五歩四反七畝七歩〆五町三反八畝七歩


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