箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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の振興とともに、現金収入を求めての兼業農業の急増と、専業農家の激減である。また、専業農家でも多角経営による労働白数の配分、現金収入への方法、そしてまた機械化による省力化などが考えられている。いわゆる米作りだけの農業、「おかいこかい」といわれる養蚕、あるいは果樹酪農等それが大規模経営になっても多忙な時の偏在を否定することはできない。従って、年間労働の均等化をはかるために何種類かの複合による多角的経営の上に専業農家はなりたっている。また米作とか、果樹等の一種を主とした農業形態の家では、若年者がサラリーマシとなって、農業は、老人や婦人の手に委ねられるといった傾向が顕著である。これは昭和三十五年箕輪町の専業農家数九四七戸に対する兼業農家戸数一、八五六戸が十年経過した昭和四十五年に於て、専業二七五戸、兼業二三九七戸はそれを物語っている。西部開発の計画西部地区の開発は、昭和三十三年西部地区土地所有者の方々による陳情から始まった。その後たびたびの運動があったが、何分にも極めて大事業であることで、国の方針決定までいたらなかった。ところが昭和四十二年中央道通過路線の決定にあたり、中央道がとおるだけでは地域住民の直接利益にならないから、その地域農民の利益になることを何かしてほしいということで、関係農協の働きかけで西部地域の開発ということの運動をはじめた。はじめは水田を作るということであったが、食糧事情の変化で、水聞の減反をせねばというような事情から)畑かんを主として、区画整理ということになった。これについては多額の予算を要し、また今後の農業の見通しなどから幾多の意見が出ていた。最終的には、関O係者一、五四人中、賛成者一、一一六人に達し、七四広、三分の二以上の賛成を得たので、土地改良法によって西部開発の事業は推進されることになった。伊那西部地区農業総合開発計画の概要


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