箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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記しているものであろう。ため池の型状は、摺鉢型で相当深かったが、今は土砂の流入で当時よりずっと浅くなっているという。開田面積は約三町歩で、田の面積は八畝が基準であった。聞かれた田は、その地区に土地を持たない者にも他地区の畑と突換して、区民全員に分配された。開田当時は、ため池の貯水を潅水していたが、何時ごろからか深沢川の二番井(一番井は上古田〉を用いるようとなり、現在はため池直下の水田二枚がこの水を用いているだけである。二番井は、南原地区下方の番場にある水田四五反歩用に、古から引水Jしていた用水で、その水田を乾さないように水見をするのを交換条件として、南原の水田に分水してもらうことになったものである。このことは、ため池築造の時点に既に計算されていたと思われる節もある。僅かばかり沢水を貯水したところで、三町歩の国に濯概することは到底困難なことで、ため池は深沢川の水利権獲得のための、名目とは言わないまでも、結果的には有効な布石であったと言えよう。昭和八年十一月の改修工事で、林九十、小林金吾の両氏が生き埋めとなり、必死の救助活動も空しく尊い犠牲となった。上古田のため池史料が割合よく保存されている上古田区であるのに、何故かた,め池に関するものは残されておらず、築造について確かなことは一切不明である。前掲箕輪町のため池には、設置年月明治十八上古田ため池


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