箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


>> 474

下古田のため池四つのため池のうち、資料の残っているのは下古田だけである。下古田区がこのため池を構築したのは、明治になって、農民の土地所有が正式に認められ、また開田への種々の制約がはずされたこと等によって、別項のように各地に急速に進められた農業用水路の開さくと願いを一にするもので、下方南原地区畑地の水田化を目的としたものである。明治十二年一月五日に着工し、当日は石工の田畑牛太郎、唐沢平兵衛外二二名の区民が作業に従事している-石工の二名は下古田区民ではなく、完成まで泊り込みで就業しており、区民は築造の完了した同年五月五日まで、一日平均二五名程が交代で作業している。築造に要した人工は延一一一一九六、五工で、他に大工、木挽等一工程かかっている。人工賃は区民が一日一一一OO銭五厘、田畑、唐沢両職人は一銭八厘であった。(明治十三年白米一升一O銭〉職人の人工賃が、一般区民より安価だったのは、両名の宿泊、賄等を区が負担したからである。~費用の総額は不明だが、柴治平等一一名から五五円を、年利一割六分で借入している。約一四工の人工OOOOO賃の総計は二円足らずの計算になるから、土地買収費、資材費、諸雑費等を合わぜて、五五円は費用の総O額に近いものと推定される。明治十五年までは、毎年同額の利子を支払っているから、返済したのはそれ以後であることは確実だが、返済完了期日や方法については定かでない。完成は、明治十二年五月と推定される。五月五日以後の支払帳がないし、ため池の規模からみても、一四00工で築造は可能であったと考えられる。築造場所の地形が、上古田と異なり山際の急斜面という利点があって、築堤は東方一面だけよかったし、高冷地で一気に完成して貯水してしまわなければ、冬期聞には凍みあがってしまうことは充分考えられるので、五月五日完成という推定に間違いないと思われる。昭和四十四年に建立された記念碑には、明治十四年完成とあるが、古老の話などと合わせて考察するに、十四年は開田まで完成したことを


<< | < | > | >>