箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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横井戸掠獲様式閃向に埋め、糸を張って掘り進んだらしい。直線方向は間違うことは少なかったが、高低が食い違うことがあったという。開固と維持管理開田は明治四十二年から四期にわたって行なわれ、総面積は六ヘクタール強となった。その後水量の減少で、昭和十一年には、第一期開田分二、Oア畑、同第二期分一、七六Hの計三、七七だけを水田として残し、第三、四期開田の分は畑に転換Hした。開田の早い回の方が強い水利権をもっていたわけである。水量減少の原因は明かではないが、横水戸水路が老朽化し、浸透が多くなったためと考えられる。湧水量の減少はその後も続き、現在ハ昭和五十年)の耕作面積は、約三・切である。限りある湧水を最高限度利用するため、「時間水」という濯概方法を採っている。横井戸湧水出口に掛時計を置き、時聞を定めて順々に潅水するわけで、文字盤の蓋に封印をして、水当番だけ聞けられるようになっている。時計を遅らせて給水を多くする不正を防ぐためである。第四節たため池の水源は、山沢の湧水、横井戸の水、天竜川の支流の揚水等により設置された。その設置の目的については、水利権を守るため、稲作地帯をあらたに形成するため、生活用水の確保のため等それぞれの目的があった。規模も大小さまざまで、その数も町内には十五ケ所余に設置されていたが、現在では次表の四ケ所で、実際に利用されているのは、上古田、下古田のため池だけである。め池


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