箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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安政三年三八五六)高速藩主内藤侯の命令により、当時の農業土木の大家伊東伝兵衛が実測に着手したが、取入口である諏訪藩との用地交渉がまとまらず、実現不能となったO開発の経過OM明治九年の開発計画(第一期開発計画)維新後の開発計画の中で注目に価するのは、明治九年に計画されたもので、「西天竜」によると、開田予定地区が辰野町、箕輪町、南箕輪村に及び、水路幅も平均三聞という大規模なものであった。開発取替書には、当町関係では沢小原儀十郎外七名、大出井沢喜一郎外八名、松島三沢理三O治、木下北条孫七郎外七名、富田向山五郎外一名が連署し、相当燃え上がった企画であったと察せられるが、資金の調達ができなくて着手に至らず消滅したものらしい。その後しばらくの間立消え状態になっていたが、明治三十三年に、上伊那郡長で郡農会長を兼ねた平林斧士口が提唱して、実地調査が行なわれたことから、開発の新たな胎動が始まる。即ち三十九年には、関係五ケ町村の有志が郡事業としての測量設計を請願して郡に三百円寄付、郡は四十年測量設計のため二、六六円を計上し、翌四十一年天竜川疏水工事計画説明書などができた。しかし、余りにも大事業のため郡は長野県に適否の調査を依頼、県は調査事務所を設置して、四十三年から四十五年六月まで実地測量し、総工費七四万におよぶことがわかった。この調査結果にもと守ついて、同年七月関係五ケ町村長が主体となって、大正七年二月濯甑見積反別一町歩につき七銭を賦課し、一、七八円の予算をもとに、農商務省、内務省など関係機関に陳情するまでにこぎつけた。しかし、事態はそれから先進展せず、再び腰着状態に陥った。大正の開発計画実現は遂に大正に持ち越された。大正七年に起った米騒動と第一次世界大戦により、政府が食糧増産政策をとるに至って事態は好転した。農商務省は新たに土地利用機関を設置し、同年八月に同省の技師寺田六郎等が調査のために来県し、数十日にわたり調査を実施した。そして翌八年、開墾助成法が制定され、政府が開墾費用の四を補助し、積極的に開墾を将励ずることになって、急速に実現の運びとなった。O


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