箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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はなかった。やや繁雑になるが例を長向上水にとって、先人の苦心の足跡を辿ってみれば次の通りである。開削の目論見この用水は、沢川の支流である樽ノ尾沢川の漠水を揚水して、不足がちであった長岡村の飲用水を補給した上、余水で畑及び原野七町六反余を水田としたもので、明治六年長岡村永井庄造、関織右衛門の両名が発案した。これは嘉永年聞に関織右衛門、福沢為右エ門の両名が、水利権を持つ両小河内村と数年間談合を続けたが不成功に終わったという、謂わば因縁つきの用水であった。着工までには役所への上願、水利権をもっ南北小河内との談合等幾多困難な問題があったが、関係者の並々ならぬ熱意と努力によって解決し、明治十七年五月、ようやく通水した。以後今日に至るまで、長阿部落を豊に潤してきでいる用水で、完成までの経過は次の通りであった。・明治六年十二月十三日一ノ沢用水(長岡用水〉永井、関両名長岡村副戸長、百姓惣代へ、次の通り揚水を願出ている。今般我等共相目論見字一ノ沢川ヨリ流水引上ゲテ御用水ニ相用ヒ立仕候-一付テハ例へ何程入費等掛リ候トテ村方へ一銭モ栢懸不申グ相守可成候為後日証書差出申処初市如件明治六年十二月十三日尚余水ヲ以畑田成開墾致度御願且出来ノ上ハ別紙規則書ノ通堅請負人関永井庄造繊右衛門副戸長百姓惣代御御中中工事の委託契約両名の願出に対し、同年同月長岡村民一同は規則を定め連署の上両名に用水工事を委託し


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