箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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たが、思いは同じか、その後も耕作者が転々と移動した。土地改良で乾固化した今では、耕運機も自由に入るし、収穫も増し、またやろうと思えば裏作もできるようになって、湿田の面影などどこにもない。道路も整備されて宅地転用も勿論可能、事業の効果は湿田地帯で特に大きかった。第二節事業概要松島土地改良区天竜沿岸に、北島から坂井まで細長く連なる水田約一OOMは、中井(二百年前には既に閉さくされていたことは記録により確実であるO)によって耕作されてきた古田で、土地改良前は不整形な上に通じる道幅も狭く、松島付近には湿田もあって耕作や運搬に不便を感じていた。昭和十三年に松島耕地整理組合(組合長有賀利三郎〉を結成し、区画整理を企てたが、日支事変の拡大に伴う資材不足などのため、松島駅から東へ天竜川までの排水路の開設と、十沢線の道路改修を実施しただけで、自然解散した形になっていた。昭和二十三年、水路改修の必要に迫まれて関係者協議の結果、再度区画整理実施の方針が決定し、県へ松島耕地整理組合の復活手続をとることになった。沢、大出両区も加入して受益面積は、沢、大出各約一、松島約OOB一で、二十四年に着工(沢のみ二十五年)二十五年に完了した。主目的は水路の改修と聞場整理だったが、松島駅付近を中心に排水工事も行なった。OO反当負担金は、約一、八円だったが、後に取入口を一五上流に移動して、工費三万円の隆道工事OMOOを施行したため、その分が付加されたので、最終的には反当四、000円余となった。土地の配分については、これを機会に交換分合も試みたが難航し、結局現地配当主義で行なった。OH


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