箕輪町誌(自然現代編)

箕輪町誌のデジタルブック 自然現代編


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村民を結ぶ太いパイプであった。このような財政的苦難の国保も、国民皆保険と「ゆりかごから墓場まで」のスローガンをかかげて、あらゆる運動の機会をにがすことなく進めた。昭和二十七年五月には国保再建整備資金貸付金制度が設けられ、中箕輪村では診療報酬支払いのため、町債として四O万円を一年償還で年利六分五厘という長期で低利の貸付金を借受けた。これは一か月分の診療報酬であった。奨励交付金制度が設けられ岡村では一一万二千円が交付され、被保険者一人一円の割合であった。その後は概ね七年の歳月を要して、新国民健康保険法が成立して、昭和三十四年一月一日から施行されることOとなり、新法では市町村に対して国保実施を義務づけした。国の補助金制度を国が義務として支出する負担金制O度にあらためられた。①事務費についてはその全額②療養給付費についてはその二割③国保の財政の調整をはかるため、療養給付費の五分に相当する調整交付金をもうけて、国民皆保険体制にたいする国の責任を明確にしたOが保険財政はいつ安定されるか、まったく五里霧中といったところである。昭和三十年には三か町村が合併して、国保事業も同町村の事業を引継ぎ推進されることとなり今日迄の概要は次頁の通りである。事業内容は、四十八年度が赤字だっただけで順調であるが、老人医療、高額療養費、被保険者の所得構造の一一一点が今後の大きな問題点である。OO老人医療(六五才以上の寝たきり老人と七才以上の老人医療)は、人数では一割の老人が総額の三割に当たる給付を受けていること、毎月の医療費が一万円を超えた場合には、その超過分の金額を給付する高額療養費が毎月平均五件で一一万円もあること、被保険者に比較的低所得が多く、従って保険税収が多く望めないこと等が、今後運営上の問題点となることが予想される。直営診療所戦後の社会混乱のある中で、国保事業が不振にあえいでいることは、保険があっても、医療のないことが、国保不振の根源でもあった。昭和二十三年中箕輪、箕輪、東箕輪村国民健康保険組合では、直営診療O


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